「山川啓介」その1

以前から「山川啓介」という作詞家を認識はしていた。

彼が詞に表現したロマンチシズムには、阿久悠と通ずるものを感じる。

しかし、阿久悠が没後なお評価され続ける対象であるのに対して、山川啓介の名を記憶している人は多くないと思う。インターネットで検索をかけてみても、阿久悠を扱った書籍や音源は多く出版されているのに対して、山川啓介を真正面から扱ったものはほぼ存在しないと言ってもいい。

山川啓介が持つ作詞家としての魅力・独創性が、軽んじられていないだろうか。

 

私が大好きな山川の作品に、野口五郎『グッド・ラック』(1978)がある。

ごめんよ どうやら別れの時間だ

ひと箱の煙草が 終わってしまった

男は心に 響く汽笛に 嘘はつけない

行かせてくれよ

もはや語ることは無い。男の美学をこれでもかというほど表現した名詞だ。

上記は1番のサビ。2番のサビは次のようになっている。

ごめんよ 都会の浮気な風に

抱いていた夢が やせてしまった

男は心に オーデコロンを つけちゃいけない

分かってくれよ

出た。「オーデコロン」。野口五郎とオーデコロンの相性は良い。

阿久悠も、野口五郎の歌『1981年』(1979)にオーデコロンを登場させている。

夢の名残りが染みついた素肌に

オーデコロンを ふりかけながら

何てこの世は 楽しいものだと

思える日々が 来るだろう

どうやら「オーデコロン」と「夢」は、歌謡ロマンチシズムの世界において親和性が高いらしい。

つまり何が言いたいかというと、「阿久悠」と「山川啓介」は、同じような歌謡ロマンチシズムの世界観を共有していたのではないかと思うのだ。

阿久悠が『ヤマトより愛をこめて』(1978)を書いたように、山川啓介も多くのアニメーション主題歌を手掛けた点も、この憶測を下支えてくれる。

 

次回は山川啓介個人に焦点を絞り、何がカッコいいのかを書きたい。

 

禁煙の方法

安部公房がたばこについて書いた文章を読んだ。

安部公房いわく、喫煙の効用とは、行為そのものを営んでいる時間自体に存在する。というようなことを書いていたと思う。

わたしは非常に共感した。たばこというのは味も臭いも最悪で、良いことなど何一つない。しかしたばこに火をつけて、ゆっくりと呼吸する瞬間、何ものにも代え難い贅沢をしている気分になるものだ。

安部公房は同じ原稿で、たばこを止める方法についても書いている。むしろ主題はこちらにある。

安部公房いわく、禁煙で禁断症状が出ることはない。薬物依存との決定的な違いがそこにあるという。そこで、安部公房はたばこを口に咥え、火を用意し、いつでも煙をふかせる状態で一度とどまるのだという。そこで、なぜ自分がたばこを吸いたいのか、自問自答してみるのだ。

私もこれを真似してみると、なるほど確かにどうしてもたばこを吸いたい、吸わないといられないということはない。

試しに1日やめてみた。吸いたいと思う気持ちは出たが、夜、床に着く頃には収まった。2日目は疲れて帰ってきた家路で試しに一本火をつけてみたが、二口三口で飽きてやめた。3日目の今となっては全く吸いたいという気持ちも湧いてこない。

自分の飽き性な性格のせいなのか、たばこが無用であることの証明なのか、わたしには判断がつかない。しかし一つ明らかなのは、今のわたしにたばこは必要ないということだ。

喫煙所

 たばこを吸うには、灰皿が要る。

 先人たちの話を聞くに、昔は駅のホームなぞでも灰皿があり、たばこをふかすことが出来たというが、最近は違う。

 街頭には人の背丈よりも少しばかり高い仕切りが立てられ、迷えるスモーカーたちがこぞってたむろしている。彼らは思い思いに紙巻やら電子やら、あるいは手巻きやらを持ち寄っては、(燻製器の中を思わせる)煙い一角に集る。

 今日の喫煙所は、さながら便所厠の様相を呈していて、世間から隔離される形で鎮座していることが大半だ。

 そういう喫煙所事情のもとでは、誰でも所謂「行きつけ」の喫煙所が思い浮かぶ。

 

 私の場合、たとえば通い慣れたキャンパスの奥にある喫煙所。

 かつては大きめの教室棟の真横に二か所目の喫煙所があったが、こちらは非喫煙者の人通りが多く、撤去された。私はこちらをあまり利用していなかったので影響は少なかったが、残された「奥にある」喫煙所の負担が増大した。間もなくして「奥にある」喫煙所は拡張された。

 次に思い浮かんだのは、新橋駅のSL広場にある喫煙所。

 こちらは、都会を行き交うサラリーマンたちで連日盛況している。私は気まぐれに、大学から乗り換える東京駅くんだりまで散歩することがある。そうすると京浜東北根岸線の沿線をそぼ歩くことになるのだが、その時に立ち寄るのがこの喫煙所。ボードを抱えたどこぞの調査員がアンケートを求めてくる。回答したことがないので、一体どういう調査なのかは未だ判然としない。三口ほど吸って上を見上げると、サントリー角瓶ビルボード広告が目に付く。見目麗しいイメージ・キャラクターの女優がこぼす微笑みに、思わず高揚する気分に気づかされる。

 あるいは渋谷駅前スクランブル交差点の脇に「あった」喫煙所。

 今となっては撤去されてしまったが、交錯する人波から一歩距離を置くような、不思議な情緒のある空間だったと記憶している。

 

 先ほど述べたように、今日の喫煙所はあたかも便所のような扱いを受けている。便所で営まれる行為は、一般的には排泄といって相違ない。

 そうなると今日における喫煙とは、排泄に遠からざるものではないか。

 実際、喫煙者たちが排出す煙は、あたかも糞尿の如き扱いを受けているし、たばこ依存を一種の生理現象として見るならば、「喫煙=排泄」という論理は自然だ。

 一喫煙者たる私も、日常で他人の吐く煙を吸うのは抵抗があるので、煙を糞尿のように扱う世間一般の感情は理解できる。

 だからこそ言うのではないが、一部の喫煙者のマナーが目に余る。

 

 たとえばキャンパスの「奥にある」喫煙所では、仕切りの内側が空いているにもかかわらず、灰皿から遠く離れた仕切りの外で喫煙する輩が見受けられる。

 喫煙所のスペース不足で居場所がないというなら分かる。しかし喫煙所は空いている。私と輩以外には、誰もいない。

 他にも灰皿に空いたたばこの包みを置いていくもの、周囲に空き缶やペットボトルを置いていくもの、ガムのかすを貼りつけていくもの……

 彼らは果たして自らの愚行をどう考えているのか。あるいは何も考えていないのか。思考することを知らないから、そのような愚行を繰り返すのか。

 喫煙者の悲哀を謳うよりも先に、我われにはやらねばならないことがあるはずだ。

 

17:44

turezure

 そろそろ大学の授業が始まる。今年は三回生になる。

 卒業論文の準備を進める演習形式の授業も始まる。緊張感が漂う。

 

 今日まで私の大学では新入生歓迎の期間だった。

 これは大学の入学式と、学生サークルの新入生勧誘を掛け合わせたイベントで、基本的に我われ(少なくとも私個人)の春休み終盤と、4月の初週はこれに費やされる。

 初対面の人と話すのは、思いのほか体力を使う。夕方ごろに家に帰って、少し休んでから風呂に入ると、すでに瞼が重くなっている。これにアフターの飲み会などが加わると、疲労感はピークに達する。

 しかし、この飲み会(というより、お食事会)で楽しいトークができると、満ち足りた気分になる。新歓が上手くいって、飲み会に親入生が沢山来てくれるのも嬉しい。

 そうすると、こういう文章を書こうという気が起ってくる。

 

 新元号「令和」が発表された。

 ぼくは「令和」の間、お酒を飲まないことにした。

 お酒で得られるものが、私にとって価値の無いものに感じられるようになった。

 たばこは吸いたいが、時代がそれを許さないかもしれない。

 

 公務員を目指す予備校に通っているが、上記のもろもろで全く手を付けられていない。出遅れていると感じる。焦燥感だけが先走る。

 とにかく目の前のことを潰していかなければならない。

 

 お金もない。今月も、親のすねをかじらせて頂くはずだ。

 

01:35

限定解除

 春は出会いと別れの季節だという。

 最近、運転免許のAT限定解除をしようと思っている。費用は6万ほど。おいそれと手を出せない値段だ。私は運転免許(AT限定)を親に言われて取ったので、今回の限定解除も「その延長」ということで、お金を出してくれないだろうか、と打診した。

 その日のうちに6万円をくれた。ちょうどカードで買い物をし過ぎてしまい、首が回らない、という話もしたので、オマケに1万円も付いてきた。まったく親のスネとはこういう味なのだ。

 自分がいかに恵まれているかを思い知ったのは、2年前の春だった。大学に入学して、大多数の大学生が、自分でアルバイトした金を飲み会や旅行に使っているのを目の当たりにした。カルチャーショックだった。アルバイトなど、せいぜい小遣い稼ぎだと思っていた。自分がいかに恵まれているかを思い知った。

 春は出会いと別れの季節だという。

 最近、アルバイト先で人の入れ替わりが激しい。今日も1人、最後の出勤という人がいた。同い年の先輩アルバイトの人と、「お疲れさまでした」と挨拶をして、一緒に裏口から出た。その先輩アルバイト(同い年)の人も、来月で辞めるらしい。

 めずらしく、暗い繁華街の道で、歩きたばこを喫んだ。個人的な哲学で、わたしはあまり歩きながらたばこを吸わない。ただ、今夜はちょっとやりたくなった。

 春は出会いと別れの季節だという。

 サークルの新歓が迫っている。先に書いたように、今月(と来月)の私は金がない。きっと新歓で出ていく金も、親にせびることになる。サークルに新入生が入ってくる。

 どうせなら、可愛い女の子がいい。生まれてこの方、彼女がいたことがない。せめてもう少しくらい人生を楽しませてほしい。モテるためにも、とりあえずバイト明けの夜食は控えようと思った。今からでも遅くはないはず。

 春は出会いと別れの季節だという。

 予備校の公務員講座に通っている。というか通い始めた。もちろん勉強の習慣は抜け切っていて、正直とても苦しい。公務員という進路が相応しいのかも分からない。しかし、その通年講座にも30万近くかかっている。親が出してくれている。もはや後に引くことはできない。

 春は出会いと別れの季節だという。

 とりあえず、夏にサークルで行く沖縄は、自分で稼いだお金で行ってみたい。

 20歳になった。今年は21歳になる。20代最初の夏は、テメエのケツをテメエで拭いて迎えたいと思っている。

 春は出会いと別れの季節だという。

 

おわり

24時10分。なんかエモくなったので記す。

ライブ

 ライブとか、イベントというものに何回か足を運んだことがある。

 一時期凝っていた『シドニアの騎士』のイベント(主題歌を歌うangelaによるライブ付き)や、手伝いで行った映画の試写会(これまた主題歌を歌う忘れらんねえよによるライブ付き)、アマチュアバンドが集まるライブハウス、沢田研二の古希コンサート。

 先日観た「オードリーのオールナイトニッポン10周年全国ツアーin武道館」も、その内のひとつだ。この武道館公演は、私の薄いライブ人生において、最高の経験だった。しかし、あくまで映画館でのライブビューイングであったことを付しておく。

 この武道館チケットは本当に取れなかった。確か3回ほど抽選の機会があったが、全て外れた。挙句の果てにライブビューイングのチケットも落選する始末。正直、ここまで当たらないなら縁が無かった、と諦めようとも思った。でもやっぱりどうしても行きたい。武道館でトークする若さんとかっさんを一目見てみたい。ちょうど川崎の劇場で席が追加されていたので、滑り込みで間に合った。

 ギリギリだったからか、当日は一番端っこの席だった。私はいつも、劇場ど真ん中に座る人間なので、何となく居心地が悪かった…と思いきや、壁にもたれることができたりして、なかなか悪くない。リラックスしてオードリーのフリートークを聞いていると、目をつぶったりして、いつものラジオと変わらなかった。最高だった。

 3時間ぐらいの長丁場。さすがに疲れたが、大満足で劇場を後にした。腹が減っていたので近くのココイチに入り、ツナサラダと豚しゃぶチーズカレーを食す。豚しゃぶチーズカレーは、日向坂の金村美玖がブログで紹介していたカレー。そして日向坂とオードリーはビジネスパートナーでもある。メンバーは、武道館にも観に来ていたらしい。

 最近の『ひらがな推し』が面白くない。初期はオードリーとメンバーに程よい緊張感があって面白かったが、次第にメンバーも慣れてきて、特に面白くない絡みだけで番組が終わることが多い。メンバーの個性が出てきて、オードリーのプレゼンスが薄まってきているからだと思う。だがしかし、金村美玖は可愛いので、私は『ひらがな推し』を観続けるだろう。

 

おわり

8時58分。友人との約束前にリビングで。

武道館

 今日は朝から武道館に行っていた。目的は、明日に控える『オードリーのオールナイトニッポン』武道館ライブの事前物販である。武道館でしか買えないスウェットや靴下、限定カラーのTシャツなどがあり、物欲モンスターたる私にとって、外せないイベントだ。肝心の公演チケットは落選を重ねて手に入れられなかったので、せめてグッズだけでも確実に手に入れようと、16時から開始予定のところ、昼ごろに現地に到着した。

 私が到着した時には、既に数人の列ができていて、スタッフに別の場所に誘導される。持ってきた本を読んだり、音楽を聴いたりして時間を潰しているうちに、物販の開始時間になった。

 行列には男性はもとより、若くて可愛い女の子が多かったのが印象的だった。私がいた列の先頭部分にも、可愛い女の子が結構いた。オードリーには私が希求するようなホモソーシャル的愉楽があるから、彼女たちはそういう部分に反応しているのかもしれない。あるいは(というか本流はこっち)、熱心なお笑いファンか。

 ただ我われ男性が共感して止まないオードリーというアイコンの本質に、彼女たちがどれほど迫れているのかは疑問だ。男女のセクシュアルな壁は、リトルトゥースたちの間に厳然とそびえていると私は思う。個人差はあるものの、男が聞くオードリーのトークと、女が聞くオードリーのトークは全く違うはずだ。

 最近また自動車評論家・徳大寺有恒の著書を読んでいる。『ぶ男に生まれて』という気取らない文体で書かれたエッセイだが、ここにも男女の違いについて書かれていた。男と女は違う生き物だから、女は男と違う世界を持っている(逆もまた然り)。だからこそ、徳大寺御大は女性が大好きだという。

 私も女性が大好きだ。しかし不幸にも、全く女っ気のないまま人生が過ぎていく。私の慢性的な欲求不満は、そうした根源的な欲望が満たされないがためのものなのかもしれない。

 先ほどオードリーの本質に女性は迫れているのか、というあわやミソジニックなことを書いたが、私の主張は徳大寺的セクシュアル観に裏打ちされたものだ。男を男たらしめるものを信じているからこそ、女を女たらしめるものも私は信じたい。

 

おわり。

23時38分。リビングにて。